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篠原 岳司 Takeshi SHINOHARA
研究テーマ
大学院生の頃から一貫して問い続けている課題は、公の教育をいかにして民主的に統治し、専門的に運営することができるのか、ということです。そのためには、民主的な意思の調整過程と教育の専門的技術的過程の統一が必要で、これは教育行政学における古くて新しい問題だと言うことができます。
例えば、現実の学校という場で考えてみると、学習者である子ども本人が、自らの学習に関する要求を学校の経営方針や教師の教育実践に反映させられているようには思えません。教師はどうでしょう。親や子どもの意思を掴みながら、専門的な知識と技術を駆使して、教えるべき教育内容を考え、教材を作り、子どもたちの学習を自由にコーディネートできているようには思えません。言い過ぎかもしれませんが、学校とは、学習の主人公である子どもの意思に関係なく、専門家である教師の意思からも遠いところで目標が決まり、それを達成するためのシステムが事細かに形作られ、教師はそのシステムに従い教えさせられ、子どもはその中で言われるがままに学ばされる場所だとも言えるのです。
もちろん、以上は非常に極端な捉えです。わが国の教育の歴史を振り返れば、システムの制御の中にありながらも、学習者目線に立った学校づくりや教育実践がいくつも立ち上がっていました。現在の学校現場においても、学習者の声に耳を傾け、丁寧に状態を理解し、授業づくりに取り組む教師達がたくさんいます。今後の教育のあり方を考える上でも、教育を担う場において、学習者の意思が届かない・届かせようがない状況、また専門家の考えに基づかない・創意工夫の発揮しようがない状況を許していてはいけないでしょう。公に教育のシステムを構築するのですから、どうすれば一人ひとりの学習への意思を教育へと反映させられるのか、どうすればそれらを専門的な意思に基づく教育へと統合し実践につなげられるのか、それらを考え続けることが必要です。
以上の問題は、国家と個人の関係における問いでもあり、簡単に答えを出せる問題ではありません。しかし、教育行政の仕組み、そして学校経営のあり方を考える上では絶対に見過ごせない問題だと考えています。
私は、こうした問題意識により、分散型リーダーシップという教師の主体性に光を当てる学校改善の理論に注目し、この理論を基礎に民主的な統治と教育専門的な実践と経営を貫く教育のガバナンスの構築に取り組んできました。一方で、北海道におけるローカルな教育行政・学校経営をめぐる課題に注目し、現地の関係者への聞き取りを行いながら、課題解決に向けた方策を探っているところです。
アメリカから学ぶ
大学卒業後、アメリカのある都市で生活する機会を得たときに、公に保障される教育がいかに大切か、その重要性を体験から知ることになりました。それほど、私が見た都市部の公立の学校は条件が劣悪で、人種的な隔離が進み、教師はすぐに離職し、充分な設備が整わない状況にありました。一方で、ボランティアをさせてもらった私立学校は、裕福で意識の高い人たちが集まり作られているものですから、近隣の公立学校との条件の差は甚大でした。
帰国後、大学院生になり研究の道に進んでからも、荒廃するアメリカ都市部の公教育の過酷な現実は、大きな関心事であり続けました。それは、公に保障されるべき教育のあまりに貧しい現実を、アメリカという国はなぜ許してしまっているのか、アメリカの何がそうした格差を生んでしまっているのか、一方で日本はなぜアメリカのような酷い状況に陥っていないのか、という問いでもありました。
やがて学んでいくうちに、都市部の荒廃した公の教育を必死に立て直そうとする保護者と教師たちの物語に出会うことができました。特にアメリカ第3の都市であるシカゴの人々の行動は、まさに草の根から民主的な意思の調整過程と教育の専門的技術的過程の統一を目指す大変なチャレンジでした。私はそれに大いに魅了され、修士課程、そして博士課程と追い続けていくことになります。そして今でも、私にとってアメリカの教育とは、反面教師とすべき多くの課題を抱えながらも、日本では想定できない優れた実践(チャレンジ)にも溢れた、とても魅力的な研究対象であり続けています。
経歴・研究業績など
今後こちらにも掲載していく予定ですが、取り急ぎはresearchmapをご覧ください。
マイケル・ジョーダンの銅像と
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